蘆田孝昭先生がお亡くなりになっていた.きょう「集報」が自宅に配達されて,初めて知った.
私が学生時代に通過した講義の中で,いつまでも心に残して反復した,ただ一人の先生であった.
不思議な縁で,私はいま,早稲田文学部で非常勤講師をしているが,
卒業した中国文学を講義しているわけでは,勿論ない.
実は,私は,大学時代には楽しい思い出が少ない.明るい青春というものは無いのである.
そんな暗い暗い学生生活の中で,蘆田先生の講義だけは楽しみにしていた.
中国小説史や,詩論であった.文体論もまじっていた.
不思議な縁で,早稲田で非常勤講師を始める春に,蘆田先生が定年退職するということであった.
私は,卒業したら,二度と学校なんぞと関わりを持つことは無いだろうと決めていた.
実際,なんの関わりも無く卒業後の人生を何十年か歩んできたが,だんだんと学校に近接してきた.
地理的にも何度か引越しをしているうちに,早稲田の近所に家屋を買ってしまった.
そして非常勤講師をやることになった.
早稲田に世話になるんだから,蘆田先生の最終講義も拝聴に行こうと思って
出かけた.そして,蘆田先生に会うことができたのである.不思議な縁である.
最終講義の二次会だか,三次会だかで,だんだん人が少なくなってきたので,
いろいろ話をすることができた.
「実は,妙な話ですが,4月から早稲田で非常勤講師
をやることになりました,いえ,もちろん中国文学じゃあないんです,ぜんぜん関係ありません」
などと,言ってみた.「じゃあ,教えてあげるけど,名簿のつけかただけどね」といって,
自分流の記号で平常点をつけろ,いつ名簿を落として拾われるかもしれないから,などと
「ノウハウ」(?)を教えてくださった.とても,そんな几帳面な事務処理能力がある先生だとは
思っていなかったので,少し驚いた.
蘆田先生は,90分の講義で,いつも30分遅刻してきた.だから実質的に60分しか講義しない.
とても不思議で,なぜ30分も遅刻するのかわからなかった.それも毎回である.ある日,45分も
遅刻したので,私は休講と判断して帰った.しかし,数人は教室に残っていた.あとで聞いたら,
60分遅刻して教室に来て,.30分講義したという!.なんということだ.聞き逃した.
蘆田先生への愛は,教室に残った彼らより浅いことを自覚して,以来,あまり蘆田ファンだと思わない
ように努めた.
いまなら教務主任は,こんな講義をしていることを許さないだろう.学生も抗議しなかったし,
みんな,蘆田先生は30分位は遅刻するものだと認識していた.蘆田先生の人徳だと私は理解していた.
むろん「あんな,ひどい遅刻はない」と言う学生もいた.しかし私たちはそれで良かった.内容さえ
良ければ講義の価値がある.遅刻(度を越えた)しても,とにかく来るところがなんともいえない.
よく言わない学生についても,ばかな奴だなあ,何が本質的に重要であるかが分からないんだ,と思っていた.
文学とは何か−−ということについて,蘆田先生はご自分の文学論を持っておられた.学生の私は
いろいろな文学論を読んでみたが,蘆田先生は誰かの文学論と同じということは無かった.
どことなく,蘆田先生にもネタ本があるのではないか,と探していたのである.
戦争体験に関しても,独特な感じがあった.清岡卓行とも少し違うようであった.清岡さんの話は
講義の中であまり出てこなかったような気がする.清岡の方が少し年長だと記憶するが,いちど
「彼の気持ちは分かる」ということを言われた,と思う.
荒地グループとも違うようであった.もちろん第三の新人とも違う.当時,野坂昭如がサントリーの
CMに出ていた.「私は彼が嫌いなんですよ」と言っていた.「みーんな悩んで大きくなったぁ」という
のがCMのせりふであったが,それを口真似して,嫌っていた.ほかにも何人か嫌いな芸能人をあげていた.
李香蘭(大鷹,山口淑子)のことは好きだったらしい.家まで押しかけたという.「けっこう私はミーハーなんです」と
言っておられた.彼女は参院議員だった.私は政治記者だった.そのため彼女と永田町で
会うことはできたのだが,「ふ〜ん」という感じであった.なにも私にはときめくものがなかった.
少年の日々を大連で過ごして,思春期に日本に来る,というあたりの体験談が,何度も何度も,講義の
合間に出てきて,自分の体験と感性から講義が遊離することはなかった.
蘆田先生の中国語はネイティブに聞こえた.他のどの日本人の先生の中国語も,みな日本人なまりがあった.
巻舌音もきれいであった.四声も自然であった.ソプラノであった.眼光が鋭かった(色黒だった),歯が白かった.
講義中に学生を叱ることはなかったが,何かの時に,誰かが何かナメたような発言をした時だったか,
蘆田先生が不快感を示した,と私は感じた.
その時
「本当に恥ずかしい体験をしたことが無いんですよ.人の前で裸になったことがないんですよ」
と言われた.効果的であった.そういうたしなめ方もあるのか,と私は思った.同時に,内部でかなり飛躍
してるなと思った.なにか人生の思い出というか,体験というか,そこに一瞬,連結してから,言葉が出て
きたように思った.
学生運動の最盛期に主任であった.連日,講義ができない状態であった.学内には,とても学生とも思えない
風体の中年「運動家」がいた.講義が成立しなかった.主任としてそういう苦労をしていた.
早稲田の学校騒動は,東大全共闘や日大全共闘などと若干の質的差異があったと思うが,蘆田先生が
どんな姿勢を貫いたかを直接,見てみたかった.ついに当時の話は聞けなかったが,なんとなく想像
がついた.虚弱な知識人の振舞いだけは見せなかったはずである.
当時の蘆田先生には疲労が蓄積していた.主任を終えたころか,学校騒動が一段落した頃か,「温泉の話」が印象的
である.この話は蘆田経験者なら知っている話なのだが,ひさしぶりの休暇で温泉に行った.ラヂウム
温泉らしい.じっくり風呂に入った.その温泉が蘆田先生の体質に,しっくり,あった.ふろからあがり,
部屋で少し横になった.そうしたら,寝てしまった.ぐっすり寝てしまった.かなり長時間寝てしまった.
目が覚めたら,部屋の蛍光灯がついている.テーブルのうえに食事が置いたまま.はっとなって,いったい何時だ
と思った.聞けば,あまりによく寝ておられたので,そのままにしておかれたという.実に深い眠りであった.
夢などみない.本当に底から眠った.これまで,こんなに深く眠ったことがなかったのである.
毎日,毎日,どこかさめたまま寝ていたのである.この温泉で,疲れがとれた.以来.この温泉を愛用された.
その話を蘆田先生から聞いていた.具体的にどこの温泉なのか,いつか聞いてみようと思ったいたまま,亡くなられて
しまった.私も,その温泉につかって,疲れをとりたいと思う今日この頃である.私の体質にあうかどうか
確かではないが.誰か.この「蘆田温泉」を知っていたら教えてください.
定年後,蘆田先生は八ヶ岳にプレハブをたてて研究室にして住むと言っておられたが,本当のところは
よく知らない.とにかく研究室にある本が入るだけの小屋を作ったといわれていた.実際はプレハブ
とか小屋とかではなく,立派な別荘なのかも知れないが,そんなお話であった.そうして研究されている
ものだと思っていた.元気そうであったのに・・・.
蘆田先生はいつも,けだるそうに歩いていた.省力的に話すタイプであった.中国語の先生は大きな口をひらいて
口の形が学生によく見えるように発音する場合が多いと思うが,蘆田先生は普通に日常的に話すだけだった.
蘆田先生は,最初の講義で,紙を配って,学生に出身地(県)を書かせることがあった.
「別に身上調査じゃあありません.まあ,みんなのことを少しでも知りたいだけです」と
笑いながら言うのであった.たしか,両親,および,その両親くらいまで書かされたと
思う.少年期をどの土地で過ごしたか,ということと人格について関連があると考えておられたようだ.
永遠の地平線と大地を目前に見て成長した少年の感性と,ちょっと歩くと,すぐに山,川にぶつかる日本
とでは違う.そういう実感を持っておられた.
文体論では,魯迅と老舎の比較がよく講義されていた.南方の魯迅が書きコトバから小説へ向かい,
北方の老舎が話しコトバから小説の文字に向かって行った.
いまなら電子データがあれば,村上征勝先生の
方法で,データ解析の対象にできるような気がする,などと思う.蘆田先生なら
データ解析による文体論を拒絶する.それは分かる.手の指から落ちてしまう何かが
あるからだ.それでいい.解析的に文体に迫るにしても,そこまでだ.逆に言えば,
そんなところまでは,思弁的に文体を解説しなくても,コンピュータがやってしまえる.
そんな水準を示したうえで,なお,語らなければならない何かに光をあてる.
特別に蘆田先生から指導を受けたことはない.ひとりの学生として講義を受け,いつまでも
それが記憶されていた稀有の先生であった.
「中国語手紙の書き方」という本があった.商社マン向けにこんな本を書くのか,と思った.
巻末の付録を使って教科書にも使っていた.
言葉を「コトバ」と表記することにこだわっておられた.
中国語は「話しコトバ」と「書きコトバ」と違うんですと言い,口語と文語とは用語しなかった.
中国大陸を左手で説明されるのであった.
「地平線が日本にあるだろうか」ということを言われた.
「先生の発音はネイティブですね」と言ったら,
「中国人にばけて中国人として大陸にもぐりこんで暮らそうと思ったんですよ」
と言われた.日本人とバレない中国語を身につけようとしていたんだから,ネイティブなのか・・・.
「あなたの中国語を聞いていると,死んだ主人を思い出す」と,ある中国の婦人に言われたことがあるという.
あまり口を大きくあけないで中国語を話しておられた.まるで日本語を話すように中国語を話した.
「ここで緑は動詞的に使っているんです.まあ,緑化という日本語があるでしょ」と詩の中の一字の背景を述べた.
5月の文学部スロープの両脇の木々がいっせいに緑の葉を豊かにする.
「いかにも緑(luの第四声)という感じでしょ」.そういう講義をしていた.
「英語を勉強しろ」と口癖のようにいっていた.外国語がうまくなりたければ,日本語を勉強しなければ
うまくならない,という話を紹介されていた.
当時「木綿のハンカチーフ」がヒットしていて,歌手の太田裕美のことだと思うのだが「大正時代のような
顔だな.あれが最近の美人かね.昔風の顔だと思うがねえ」と雑談していた(私も同じ印象を持っていた).
まだまだ,思い出しそうだが・・・.
蘆田先生から何かを学んだといえるものはないが,
何も学ばなかったことは決してないとも言える.
一番印象深い先生であった.
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