かつて「調査における古典主義とモダニズム」ということを書いたことがある.このころのモダニズムにはまだ調査者としてはなにがしかの良心はあった.今日の多くの電話調査・インターネット調査を本文に書いたように「使うべかざるところに使う」調査改革者は,調査の良心を捨て,いわば邪教の教理を信じ込むものであり異端的である.このような異端的な調査は各方面に亘って強力に浸透しつつある.私は「調査における古典主義を中心に据え,モダニズムを加味し,各種調査法を所を得しめて用いる」という保守主義・守旧派を誇りとし,その旗印をかかげ,並みいる「調査改革者」の群を薙ぎ倒しにかかる積りでいる.
林知己夫(2002) いま調査者が心掛けること. 「新情報」VOL.86.

日仏会館での新情報センター30周年記念シンポジウムにご招待いただいたので出かけてきた.シンポジウムはともかく,隣の恵比寿ガーデンプレイスでの懇親会は楽しかった.各社の世論調査関係者と語り合う.話題はシンポのことや,シンポと無関係のことや,もちろん田中真紀子外相更迭直後の世論調査のことである.

帰りの山手線の中で,おみやげにいただいた「新情報−30周年記念特集号−」をパラパラめくってみた.目に付いたのは,この「薙ぎ倒しにかかる」である.やはり創始者たるもの,これでなくちゃあいけない.すべての「調査改革者」たちよ,進むなら,まずこの俺を倒してから進め,と言っているのである.すべての「調査改革者」たちは,正面から林知己夫に挑め.そして倒されるものは,ことごとく薙ぎ倒されよ.「いずれ俺達の時代がやってくる.それまではおとなしく待っていよう」なんてケチな根性は捨て給え.

「なにを言っているんだ.問題はもうとっくに終了しているぜ」という声が聞こえる.そうであろうか,乗り越えるということは無化するということである.相対化すると言ってもいい.相手にもせず(されず)に脇道をまわって遠くのほうから呟いているんじゃあ,からだを張って薙ぎ倒さんとする存在を永久に超えることができない.超えるべき山は高いほど良い.

 ヘーゲル弁証法の神秘的な側面を,私はほぼ30年前,それがまだ流行している時代に,批判した.ところが私が『資本論』の第一巻を仕上げたまさにそのとき,いま教養あるドイツで大きな口をきいている不愉快な,不遜な,無能な亜流どもが,ヘーゲルを,ちょうどレッシングの時代に勇敢なモーゼス・メンデルスゾーンがスピノザを扱ったように,つまり「死せる犬」として取り扱って,得意になっていたのである.だから私は,自分があの偉大な思想家の弟子であるとおおっぴらに認め,しかも価値論に関する章のあちこちでヘーゲル特有の表現法におもねることさえした.弁証法がヘーゲルの手中で神秘化されたとしても,このことによって,弁証法の一般的な運動形態を最初に包括的にまた意識的に述べたのが彼であったということは,いささかも妨げられるものではない.弁証法は,ヘーゲルのばあい,頭で立っている.神秘的なヴェールのなかに合理的な核心を発見するには,それをひっくりかえさねばならない.
マルクス(1873)

世論,または世論調査に関する林の見解は,ほぼ以下に尽くされている.
  • 林知己夫(1976)世論をどうつかまえるか.『日本人研究』所収.
  • 林知己夫(1977)世論調査の発展と現状.『世論調査の現状と課題 』所収.